Donnerstag, 17. November 2011

eine Reise nach berlin. (für eine Präsentation)

Im letzten Juli bin ich mit einem Freund, der gerade in Frankreich ist, nach Berlin gereist. Mein Freund hat damals auch in Frankreich gewohnt, deswegen haben wir uns das erstemal seit 10 Monaten in Berlin getroffen.



Wenn man mit dem ICE nach berlin fährt, kostet es viel......Deswegen habe ich auf einer Internet Seite, die „Mitfahrgelegenheit“ heißt, ein Angebot geschrieben. Ich habe 2 Mitfahrer, die in Nürnberg arbeiten, kennengelernt und wir sind zusammen nach Berlin gefahren.Weil wir nur eine Gruppenkarte gebraucht haben, habe ich nur 13Euro bezahlt. Es hat sich gelohnt.

In berlin gibt es viel Sehenswürdigkeiten und wir sind jeden Tag viel gelaufen. Besonders haben wir die gegenwartige Kunst und Denkmale von der Berliner Mauer sehr gefallen.
Einer Kunststudentin in Frankreich zuforge, ist die gegenbartige Kunst in Berlin sehr top aktuell. Wie sie gesagt hat, war es unglaublich gut. Besonders „Tahcheles“ war verrückt. Tacheles ist ein Gebäude, in dem Künstler/innen wohnen und ihre Werke verkaufen. Fast alle Mauern von Tacheles wurden mit von Graffitti „schön“ gemalt. In jeden Zimmer waren Künstler/innen und ihre Werke. Ihre Werke waren Ziehmlich charakteristish

Wie Sie schon wissen, gab es eine histolische Mauer in Berlin, die Berlin in 2 teile geteilt hat. Seit früher hat die deutsche Nachkriegsgeschichte oder DDR mich interessiert, deshalb wollte ich auch das Dankmal der Berliner Mauer besuchen. Ich stelle Ihnen den Checkpoint-Charly und die Eastside Garally mit Fotos vor. C-Ccwar eine Grenzkontrolle wahrend des kalten Kriegs zwischen Osten und Westen. Im Jahr 1963, als von der Sovietunion die Mauer gebaut wurde, sind viele Panzer dorthin gekommen. Aber heutzutage gibt es gar keine. An der Straße gibt es viele Souvenirs und viele Waren, die dine Bezieung zur DDR oder der Geschichite haben. Die East-Garallz ist ein Teil von der Berliner Mauer, die nicht heute in Berlibn ist. Die Mauer wurde auch mit Grafitti gemalt. Sie ist etwa 2 Km lang. Man kann viele Gemälde genießen, als wäre man in Museum.

Currywurst ist beliebt in Berlin. Currywurst ist lecker aber manche Leute können denken, dass das zu salzig und fettig ist. Das ist so beliebt, dass es in Berlin ein Currywurstmuseum gibt.

Ein paar Abends haben wir oft Brot und Wein oder Bier gekauft, und uns imHof eines Gasthauses oder so trinkend unterhalten.

Montag, 10. Oktober 2011

Hosono Haruomi

Ich stelle Ihnen einen absolut wichtigen japanischen Musiker vor.
Kennen Sie diesen Mann auf dem Foto?
Er heißt Hosono Haruomi. Er ist einer der wichtigsten und berühmteste Musiker heutzutage.

Geboren wurde Hosono Haruomi am 9. Juli 1947 in Tokyo. Sein Großvater war ein Klavierstimmer und seine Tante arbeitete bei einer Filmgesellschaft; aus diesem Grund konnte er seit der Kindheit viele Musik aus dem Ausland genießen.
Als er 15 Jahre alt war, bekam er eine Gitarre und bildete mit seinen Freunden eine Musikband gebildet.

Er fing mit Bassgitare zu Studienzeiten an und 1969 hat er mit seiner neuen Band „Aprilfool“  debütiert. Im selben Jahr hat er im Jahr mit Ootaki Eiich,, Matsumoto Takashi, und Suzuki Shigeru „Happyend“ gegründet und wurde damit sehr bekannt.
Sie haben zum ersten Mal in Japan Rocknroll auf Japanisch gesungen.

Nach der Auflösung von Happyends hat er eine neue Band gegründet und auch alleine  viele belannte Songs gemacht oder für andere Musiker komponiert.

Dazwischen hat er sich wegen einer deutschen Band Kraftwerk für Technomusik interessiert. Mit Sakamoto Ryuichi und Yukihiro Takahashi hat er „Yellow Magic Orchestra“ gebildet. Ihre Technomusik wurde nicht nur in Japan sondern in der ganzen Welt berühmut. Technomusik war in Japan ganz neu, und die Leute in Japan haben sich für die neue Musik begeistert.

Nach der Auflösung von „Yellow Magic Orcestra“ hat er weiterhin viel Musik geschafft, nicht nur für ihn selbst, sondern auch für andere Musiker, Filme, Computerspiele und so weiter. Zum Beispiel hat Seiko Matsuda vom Ihm viele Musik bekommen und wurde so berühmt. Auch Syokotan singt seinw Musik.

Ob er seine Familie hat oder nicht, weiß ich leider nicht.

Jetzt möchte ich Ihnen seine neueste Musik zeigen. Wenn Sie sich dafür interesieren, hören Sie mal seine Musik selbst. Sie werden überrascht sein, dass er ganz absolut verschiedeneartige Musik kompoiert hat. 


Freitag, 1. Juli 2011

ドイツ赤軍RAF② 

77年の攻撃

日本赤軍の重要人物である、アンドレアス・バーダー、グドルン・エンスリィン、ヤンカール・ラスペ、イルムグラード・メラーが、新設されたシュトゥットガルトのシュタムハイムの刑務所に1972年以来とらわれている間、すでに、ドイツ赤軍の第二世代が組織されていた。彼らの目的は、前述の重要人物の解放であった。その目的の下で、「77年の攻撃」と題した「国家心臓部への攻撃」を計画していた。

1977年4月7日 連邦検事総長ジークフリード・ブーバックの殺害

ブーバックが、信号待ちをしていた時、その横にっ二人の男がオートバイで横付けし、彼の乗る車の中に15発もの弾丸を浴びせた。間もなくウルリケ・マインホーフのドイツ赤軍の命令だったということが知れ渡る。しかし、ドイツ赤軍に対し、それ以上の影響をもたらすという目標は、とん挫する。

1977年7月30日 ドレスデン銀行社長 ユルゲン・ポントの殺害
ポントはその時、名付け子であるスザンネ・アルプレヒトと二人の友人を家に迎えていた。しかし、その三人は、実は誘拐の命令にしたがって、彼の家に潜入していたの人質をとって連邦政府を動かす」という目的は、またも失敗に終わった。

1977年9月5日 経営者連盟会長ハンス=マーティン・シュレイヤーの誘拐

5人のマスクをしたドイツ赤軍の構成員グループ”ジークフリード・ハウスナー”は、シュライヤーの運転手と、3人の警察官を殺害し、彼を誘拐した。彼は7週間もの間、誘拐犯の下におり、つくりつけの戸棚に縛られていた。テロリストは11人の拘束されているドイツ赤軍のメンバーの釈放を求めた。国はボンに2つの緊急対策本部を敷いた。連邦政府は毅然さを保ち、野党も最前線をサポートした。このほぼ期限付きの大連立与党はテロリストの釈放の要求に屈さなかった。このことは、報道されることもなく、ドイツ赤軍の囚人は、外界から遮断された(?)
前線では激しさを増したかのように思われた。しかし、この最中に次なる人質の確保計画が進められていたのである。

1977年10月13日 ランズフート(航空機)のハイジャック

ドイツ赤軍は、1970年からドイツ赤軍に訓練の場を与えていたパレスチナのテログループPFLP(パレスチナ人民解放軍)の助けを得た。ルフトハンザ機のランズフートは、離陸の1時間後に4人のテロリストにハイジャックされた。保養島マロッカからフランクフルトまで帰郷するはずだった82人の乗客の106時間にもわたるオデゥッセイアの幕開けである。テロリストたちは、人質に暴行を加えた。この”公開処刑”は日程に含まれていた。航空機の中では時として摂氏50度に上る時もあり、尿、汚物、血、吐しゃ物の匂いが立ちこめた。

ランズフートはまずローマに着陸した。そこで彼らは燃料の詰め替えを行い、キャプテン・マハムードと自ら名乗り、実際にはZohair Youssif Akacheという名のテロリスト集団のリーダーは、初めて彼らの要求を述べた。その要求はシュレイヤー誘拐の際と同じものだった。11人のドイツ赤軍の囚人たちの釈放である。加えて、彼らはパレスチナ解放人民軍の同僚である二人のトルコ人の囚人の解放と、1500万USドルを要求した。ローマからの飛び立った飛行機は、ラルナカ、バーライン、ドバイを経由しながら飛んで行った。しかしその後、このハイジャック機を受け入れるという国はなくなってしまった。しかし燃料が底をつき始め、パイロットにアデンの砂地に緊急着陸するほかに、取れる手段がなくなってしまった。着陸したのち、機長のユルガン・シューマンは砂地に着陸した際に航空機の離着陸用の脚に異常をきたしていないか点検るするために、飛行機から降りた。しかし、その後、なかなか基調は帰ってこなかった。キャプテン・マハムッドは彼を信頼しなくなり、最終的に飛行機の中で殺された。この飛行機はあらたに給油され、モガディッシュへの渡航を続けた。ソマリアの首都である。そこで、テロリストは、殺した機長を滑走路の上に投げ捨て、最終通告を告知した。もし、彼らの要求が12分以内に達成されない場合、この飛行機は再び飛びさる。と。

そうこうしている間の10月15日。緊急対策本部は人質の強制解放の決断をする。特別部隊である国境保安隊第9・GSG9(Grenzschutzgruppep)がボンから動員された。ソマリアの大統領と、モガディッシュでドイツの部隊が作戦を実行することの許可を得るために交渉したのちに、10月18日0時05分、黒い服をまとった隊員たちが、機内に強硬侵入した。3人のテロリストが銃弾が浴びせられ死亡、乗客、乗務員含めて86人が無事に解放された。

10月18日 バーダー、エンセリン、ラスペの自殺

朝方、この三人が彼ら野テントの中で死んでいるのが発見された。この自殺はまた、誘拐されていたシュレイヤーの運命も決定づけるものだった。

10月19日 シュレイヤーの遺体の発見
経営者連盟会長のシュレイヤーが、ミュールーズに止められていた遺体の姿で緑のアウディーのトランクの中で発見された。ドイツ赤軍の構成員が、頭に3発の銃を撃ち、殺したのであった。

ドイツ赤軍(RAF)①

RAF(ドイツ赤軍)とは、西ドイツの極左テロ集団である。1970年に、主にアンドレアス・バーダー、グデゥルン・エンシリン、ウルリケ・マインホーフによって結成された。このグループは、共産主義かつ反帝国主義であり、市街ゲリラの手法を用いた。とりわけベトナム戦争時代のアメリカによる化学物質による戦略や、警察の制度について反対をしていた。RAFは34人の死者、何回にもわたる銀行強盗、爆薬の使用などについての責任がある。

ミュンヒェン1972 ”暗い9月”

1972年に、オリンピックの夏大会が、ミュンヒェンで開かれた。オリンピックはドイツにとって、新しくなったドイツを世界に見せつけるための格好のチャンスであった。1972年9月5日までに、オリンピックは順調に行われていたが、しかし、自体はパレスチナ武装組織のテロ攻撃によって、一変した。このテロによって、11人のイスラエルの選手、一人のドイツ人警察官、そしてテロリスト8人のうち5人が命を落とした。このテロ攻撃が、国際テロの歴史の幕開けである。

事件の流れ

1972年9月5日

4時30分
二人の郵便配達夫がトレーニング用の鞄を持った6人の男たちがオリンピック村にいたのを確認している。彼らはその時オリンピックの参加者であり、ミュンヘンで夜遊びをして帰ってきたものとみなされた。テロリスト集団はあと二人の共犯者がおり、すでにオリンピック村に潜入していた。テロリストのリーダーの名前はムッサラーといい、意図的にビュッヘのスタッフとしてオリンピック村に潜入した。19歳から27歳までのその男たちは、香港、イスラエル、ハンガリーの選手が宿泊しているコーノリー通り31に行っていた。その建物のドアは、鍵が閉められていなかったため、安易に中に侵入することができた。イスラエルのレスリングのコーチのモッシェ・ワインベルグは、武装したテロ集団と出会い、イスラエルの選手がいるところへ案内させられた。重量挙げのヨゼフ・ロマーノ彼の為に選手がいる部屋のドアを開けた。しかし、このとき、ヨゼフはナイフを持っていたので、ヴァインベルグとともに、間もなく撃たれてしまった。三人のイスラエル選手が、逃げることができた。テロリストはこの家を占拠した。

4時50分
その家は、警察によって包囲された。

7時12分。テロリストはバルコニーから要求を書いた紙を下に投げ落とした。彼らは、200人にも上るイスラエルの刑務所に入れられている囚人の解放とともに、RAFのテロリストである、アンドレアス・バーダーとウルライク・マインホーフの解放を求めた。彼らはまた、自身たちの身の安全をもとめた。第一通告は、九時に終わった。

7時20分
連邦内省大臣のハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー、バイエルン州の同僚のブルーノ・メアクそして州警察本部長からなる危機対策本部がオリンピック村に設置された。彼らのテロリストに対する交渉は、うまくはいかなかった。破格な身代金が犯人に拒否されただけでなく、ゲンシャーの提案、すなわち自身と人質を交換しろという要求もうまくいかなかった。

8時45分
テロリスト集団は最終通告を12時に延ばすことを許可した。(後に13時にさらに延ばされる)

11時50分
ヴィリー・ブラント首相はミュンヒェンに向かっている。

14時53分
オリンピックは予定通り進められる。しかし、オリンピックの中止を要求するデモ団体も現れる。
最終通告が、17時まで延ばされる。

15時42分
国債オリンピック委員会が、オリンピックを24時間中止することを決定する。

16時22分
数名の人質だった選手が解放される。最終通告は19時に延ばされる。

21時00分
交渉によって解決する道筋はもはやなくなってしまった。

22時22分
二台のヘリコプターがテロリストと人質を乗せて、フュルステンフェルドブルックにある軍飛行場へと向かう。すでに、テロリストを騙し迎えるためのルフトハンザ・ボーイング727型機が用意されていた。
犯人の数人がヘリコプターの中に乗り込み、機内をチェックする。三代目のヘリコプターが五人の警察の狙撃手を乗せてやってきて、発射命令の後、ゲオルグ・ハーゲルに銃弾が浴びせられた。
その間に、国際オリンピック委員会が、試合の続行を決定した。

1972年9月6日

0時10分
テロリストはヘリコプターの中に手榴弾を投げ込み、間もなく、炎をあげた。飛行機の中では一人の警察と、8人の人質がその際に撃たれた。警察の公式発表では、三人のテロリストをこのときのがしている。他の者は消火剤のの中に隠れ、死んだふりをしたが、結局捕まった。国際オリンピック委員会委員長のアベリーブルンダージはこう公言した「オリンピックは継続して行う!」

1972年9月7日

殺されたイスラエル選手たちの遺体がイスラエルへ移送される、死んだテロリストの遺体も、英雄の眠る墓があるリビアに移送された。


訂正後

1972年に、オリンピックの夏大会が、ミュンヒェンで開かれた。このオリンピックはドイツにとって、新しくなったドイツを世界に見せつけるための格好のチャンスであった。1972年9月5日の間、オリンピックは順調に行われていた。しかし、事態はパレスチナ武装組織のテロ攻撃によって、一変することになる。このテロによって、11人のイスラエルの選手、一人のドイツ人警察官、そしてテロリスト8人のうち5人が命を落とした。このテロ攻撃が、国際テロの歴史の幕開けとなったのである。


4時30分
その日二人の郵便配達員が、オリンピック村に、トレーニング用のかばんを持った6人の男たちがいるのを確認している。郵便配達員は、彼らはオリンピックの参加者で、ミュンヘンで夜遊びでもして帰ってきたのだろうと思った。しかし彼らの思いとは裏腹に6人の男たちはテロリスト集団であった。2人の共犯者がおり、すでにオリンピック村に潜入していたのである。テロリストのリーダーの名前はムッサラーといい、意図的にビュッフェのスタッフとしてもう一人の共犯者とともにオリンピック村に潜入していた。19歳から27歳までの8人の男たちは、香港、イスラエル、ハンガリーの選手が宿泊しているコーノリー通り31にいた。その建物のドアは、鍵が閉められていなかったため、安易に中に侵入することができたのである。イスラエルのレスリングのコーチのモッシェ・ワインベルグは、不運にも武装したテロ集団と出会い拘束され、イスラエルの選手がいるところへ案内させられた。このとき重量挙げの選手ヨゼフ・ロマーノが彼らの為に選手がいる部屋のドアを開けた。しかし、そのとき、ヨゼフはナイフを持っていたので、ヴァインベルグとともに、間もなく撃たれてしまった。これらの暴挙のさなかで三人のイスラエル選手は逃げることができた。そしてテロリストはこの宿舎を占拠したのである。


4時50分
その宿舎は、警察によって包囲された。

7時12分。テロリストはバルコニーから要求を書いた紙を下に投げ落とした。そこには、200人にも上るイスラエルの刑務所に入れられている囚人の解放とともに、RAFのテロリストである、アンドレアス・バーダーとウルライク・マインホーフの解放を求める要求と、自身たちの身の安全をもとめる要求が記されていた。第一通告は、九時に終わった。


7時20分
連邦内省大臣のハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー、バイエルン州の同僚のブルーノ・メアク、そして州警察本部長からなる危機対策本部がオリンピック村に設置された。しかし彼らのテロリストに対する交渉は、うまくはいかなかった。破格な身代金さえも犯人に拒否され、さらにゲンシャーの、自身と人質を交換しろという交渉さえもうまくいかなかった。

Donnerstag, 30. Juni 2011

ベンノ・オーネゾルグの死

ベトナム戦争や、大学への抗争、そして、緊急事態法へのデモは、路上でますます行われるようになった。
1967年6月2日。
ペルシャ皇帝、レヴィ・パーレヴィとその妃がベルリンに訪れた。この皇帝の訪問は、テレビでも体大的に放送され、また、イランの皇帝の政治について、反対するために、非常に多くの抗議者と野次馬がでた。この皇帝というのは、いわゆる独裁者であり、彼の指示に反対する国民を逮捕したり、    したりといった、野蛮な措置をとっていた。
学生たちは、イランのこのような状態を知ると、動揺し、憤慨した。若い彼らの怒りのパワーの矛先はこの皇帝だけでなく、ペルシャに賛成しているドイツの政治家に対しても向けられた。それに対し国は国賓を守るために30000人もの警察官を動員した。

皇帝が、シェーネベルクの市庁舎の前に来た時、すでに2000人にのぼるデモの参加者が、ケネディー広場に集まっていた。イランの防諜員サヴァックもそこにいた。皇帝とその妃は市役所の中に入ったとき、突然ペルシャ人は鉄の棒などを用いて、野次馬と抗議者の集団を攻撃した。しかしこの恐ろしい攻撃に警察官たちは、ペルシャ人たちを制すことなく寧ろ、ゴムの棒でデモの参加者たちをたたいて応戦したのであった。
その夜、皇帝夫妻、大統領、市長が訪れると知った皇帝の抗議者や野次馬たちはシャルロッテンブルクのオペラの前に集結した。そして彼らに対し石や卵、カラーボールが投げたのである
ベンノ・オーネゾルグというローマ学、ドイツ学を専攻していた学生にとっては、その日初めて政治的デモに参加だった。しかしその学生は不幸にもデモの抑圧の名の下にのカール・ハインツ・クラス警部補(当時39)は彼を意識がなくなるまで殴られ続けた。そして、詳しい状況はわかっていないが、ベンノは、この警部補によって、撃たれた。
誰も銃声を聞いていなかった。彼は、病院に運ばれ、間もなくなくなった。しかし、警部補が、有罪判決を受けることはなかった。

今日のAlex Spriger AG http://www.axelspringer.de/en/index.html のオーナーであるアレックスシュプリンガーは、当時新聞記者だった。学生運動の流れの中で、アレックスは
とりわけビルト紙に彼の保守的思想を書いていたのだが、彼は、ベンノの死去以降、左翼学生たちを否定的にとらえた記事を書いた。
このシュプリンガーの記事は、50年代と60年代の高度経済成長社会を通じて形成された社会に疑念を抱いている人を論破した。それを持って、学生運動にするどいメスを入れることで、学生運動を罪ある行為とした。1968年のルーディデゥチュケの暗殺についても、アクセルによって、ネガティブなものとして、そのビルド紙に載せられた。

Sonntag, 5. Juni 2011

DDR史③

日常

DDRでは、1958年まで配給制が続いていた。そのため、買い物の為の「生活必需品券」(国から発行される文書で、その所有者は定められた配給品を定められた量受け取ることが出来る)が必要で、スーパーの前には長蛇の列がずっと並んでいた。
いくつかの消費財は常に不足していた。価格と給料は国家によってだいたい決められていた。国は特に日常生活に欠かせない商品の売価の統一に関して補助金をだした。この国のモットーに反して、輸入することのできた電気機器や製品はたいていとても高かった。
高価、高級な商品は、いくつかのチェーン店で買うことができた。高級食材店での食材や、高級な洋服屋における最新の洋服などがこれに当たる。

DDRの人々はどこに住んでいたのだろうか。うわゆるパネル建築(Plattenbauten)という建築物がDDRのあちこちに建てられていった。
この建築物は概ねできあがりのコンクリートで出来た建て物であり、天井や壁も工場でつくられた出来上がりのものでつくられていた。この組み立ては比較的早く行うことができ、工場での生産も早く行うことができた。しかし、これにはデメリットもあった。たとえば壁が薄すぎるために、となりの人が何をしているのか、何を話しているのか筒抜けだったのだ。

一台の車を買うために、申し込みをしてから最長で15年間またなけれ場ならなかた。やみ市では一部でその長い待ち時間を回避することもできあ。トラバントのような典型的な車は新車で、待てば10000東ドイツマルク、待たずに闇市で買おうとすると、その三倍の値段がした。

車の生産のはじめに、トラバントは国民車として受け入れられ、中級階層の人々が自動車を手に入れた。
車を持っている人は、トラバントを持っている。この国民同水準化はDDRが、西側のシステムと差別化を測る時に用いた基本方針であった。

監視(シュタージ)

国家保安局はシュタージと呼ばれ、DDRの秘密組織であった。1950年に設立された。この組織の重要人物としては、長い期間国家保安相を努めたエアリッヒミールケがあげられる。彼は1957年から、壁の崩壊まで勤め上げた。シュタージの各県の管理はDDRの一般地方自地と似たような手法で行われた。彼には、国、軍、工場、官庁に指示系統が存在していた(?)監視網は、無数の秘密の同業者で構成されていた。とりわけ手紙の検閲や、電話の監視を通して行われていた。

1989年には85000人のシュタージ職員と、174200人の秘密の同業者が働いていた。官庁の活動は、主にこの国にふさわしくない思想を持つ人や、反社会勢力、そして政治に対して反対する人にもむけられた。職務の範囲は、特に公民権運動のシンパ、宗教や自然保護団体、批判的な芸術家だけでなく、国家保安局の圧力と尾行の中心的役割を持つ組織に入りたいという意志を示した人にも行われた。

DDR史②

イデオロギーとプロパガンダ

他の共産主義国と同様に、DDRの政策の中で、プロパガンダは大変重要な意味を持っていた。その目的は、西側諸国の資本主義を批判することだった。すべてのメディアがSEDによる検閲を受けていたために、プロパガンダは常に日常にあふれていた。その好例としては、ニュース番組の「Aktuelle Kamera(時事カメラ)」や「Schwarze Kanal(黒い運河)」等があげられる。

「Aktuelle Kamera」はDDRのテレビ番組の中で、代表的な番組であった。内容としては、その多くが中央委員会の活動や、SEDの党大会、公的な理由での外国訪問などが主であり、そのほかに工業や農家における製品や作物の誤った改善(?)が報じられた。「schwarze Kanal」は政治扇動的な放送だった。西側のテレビの一こまだけを切りぬいて放映そ、そのあとに東側の観点からそれについてコメントしていった。この放送は、東側でも放送が見れ、人気のあった西側のテレビ放送への、西側の応答だった。”テレビ放送を介した共和国逃走”と呼ばれている(?現実逃避していたということか?)

真偽は置いておいて、並々ならない偉業を達成した個人は、ジグムントヤーン(ドイツ初の宇宙飛行士)やアドルフヘネッケ(ドイツの炭鉱夫・SEDのリーダーによって、ロシアの炭鉱夫アレクシライシュタッハノウの模範に引きづ付いてDDRの中でも代表的な炭鉱夫を、ということで選ばれた)のように、国家の英雄とされた。

文化

スポーツもDDRの形成において重要な観点である。DDRの憲法には世界で初めて、学校や国民スポーツといった身体的健康形成を推進が明記された。その中でもとりわけ重要だったのが、子どもと若者の健康であった。しかし人々はそう簡単に古来の理想「健康な肉体に健康な精神が宿る」へ戻っていくことは出来なかった。豊かなBDRでは、この東側のスポーツは復讐を象徴し,プロパガンダがそのあかしだった(?)
1972年のミュンヒェンオリンピックはとりわけ重要だった。初めてオリンピックで「DDR」選手団が、DDRの旗の下で行進することが許された。このオリンピックではDDRは合計で20の金メダルをとり、世界で三番目のメダルの数を記録した。
しかし、選手の準備に関しては、「許されざる手法(ドーピング)」が行われた。国歌は年間100万人もの研究者を、ドーピング研究に従事させるために投じた。

スポーツと並んで、芸術や文化は東側における重要な部分である。DDRの文化はドイツの労働運動の伝統と、ソビエトかを混同させ、とりわけ最終的には個人崇拝へと導くものだった(?)
BDRがデカダンのモダン主義を達成したのに対し、DDRは社会主義的現実であった。この動きの三つの原則とは①労働者の側に立っていること(芸術家は自由と社会主義の理想を渇望する活発な同志でなかればならない)②民俗の統一(芸術は国民をまとめ、自意識のレベルと求められるところまで導かなければならない)③社会主義的理想を持っていること であった。 文化はベルトルドブレヒトのようにマルクス的な思想に寄り添うというところに根ざしていた。ベルトルドブレヒトはSEDによって持ち上げられ、多くの賞を受賞した(たとえば国民栄誉賞一級, 1951年)

DDR史①

導入

”Auferstanden aus Ruinen”(破滅からの復興)は1949年から1990年まで片方のドイツの国家のタイトルであった。その国の名はドイツ民主主義同盟DDR。労働者と農業従事者の社会主義国家であった。この国家は、他の東側諸州と同じくソビエトの占領地区から生じ、ソビエトの占領領域に所属していた。

この国家の権力は、社会統一党ドイツ(SPD)が、実質唯一の党として存在していたため、この国は独裁国家であった。DDRの政策とイデオロギーは、マルクス主義、レーニン主義そしてソビエトにやりかたを踏襲し、決定された。

SEDが掲げたプロパガンダは、いわゆる「労働英雄」と呼ばれるもので、炭鉱労働者のアドルフヘネッケや、宇宙飛行士のジグムントヤーンなどがそのスローガンのもとで、重要な人物でとしてあげられる。文化やスポーツ分野に関しても、その開花がDDRの人々に、効果的に自信と模範を促し、示す術として、発展していった。

多くの人々が、独裁政治と監視のために、プライベートにひきこもっていたので、日々の生活は、こそこそ行われていた。生活の目印(?)はDDRの手中にあった。店の前に出来る長蛇の列、簡単な作りの家々や、典型的な形のトラバントと称された自動車・・・。
シュタージ(国家保安機関)は、反国家主義的思想を持つ人を監視する機関であった。

政治


DDRの政策の基本は、SPDとKPD(ドイツ共産党)が1946年4月21日に合併してできたSEDである。この合併は少なくともSPDの議員の大部分の意志に反して、目的をもってソビエトの力によって合併された。 ヴィルヘルムピーックとオットーグローテヴォールが握手をしているこの写真は、ドイツ戦後史の中でもとても重要な物の一つとして数えられている。
DDRの実質上の権力は、SEDの中央委員会の政治局であり、政府はその下で従順していた。政府は人民議会によって選ばれ、戦術としての人民作戦で支持されたそれぞれの党から大臣が選ばれた(?)しかし、本当の国家権力はZK(中央委員会)が掌握していた。

DDRの外交的自立は事実上制限され、この国は、ソビエトに左右される衛星国家にすぎなかった。ソビエトとのこの密接な関係は、生活のすべての面で、反映されていた。しかし、DDRもBRDのように、ドイツ全土の統一を願っていた(?)この「SED国家」は経済相互援助会議,ワルシャワ条約機構に参加した。ゲルリツッアーの同意はDDRはオーダー・ナイセ戦で分割されるドイツとポーランド間の国境によって大きな意味を持っていた。

Mittwoch, 1. Juni 2011

FDPの一派閥が南独の核処理施設を模索

FDPの一派閥の長、ライナーブリューデレ氏は、南独で各処理施設捜索の拡大を行うことを表明した。

「ニーダーザクセン州にある現在のゴルレーベン処理場は、最終的に偵察・検討されなければならないが、同時に他の候補地も考えなくてはならない。」と前経済産業省大臣が語ったとハンブルク紙の夕刊で報道された。「もしバイエルンとバーデンビュルテンベルクに適した場所を探す準備があれば、我々はその提案を受け入れるべきだ。」ヨーロッパ連合は、ドイツをスピーディーに廃棄処理施設の捜索を行うよう仕向けた。ドイツは何年も二―ダーザクセンのゴルレーベンを廃棄場所として、そこにある岩塩ドームの使用を試みてきた。週末のサミットでは、内閣はしかし他の処理場の模索が未着手だということを指摘した

ブリューデレ氏は要求に反対している。「連邦議会は目下推進中の脱原発に賛成しなければならない。私たちの法務大臣(内務大臣、法務大臣)たちは、エネルギー転換への法律に必ずしも賛成しなければならないというものではないという成果に至った。」

連邦予算におけるエネルギー転換の予算をブリュデーレ氏は年間20億ユーロと概算している。「消費者にとっては簡単には見積もることのできないコストとなるだろう。」

彼はこうもエネルギー転換についてこうも述べる。しかし、「彼らの状況における私たちの立ち位置までも、ヨーロッパにある一政府によって分断されるということはほとんどない」ことをあきらかにした。「一つの州だけでは、安全保障上の問題は解決されえない。」「我々は感じなければならない。イギリス人が「ドイツ人の不安」と揶揄することが何なのか」とブリューダー紙は述べた。日本の原発事故から三か月が過ぎ、連立与党とFDPは2022年までに脱原発を遂行するということを決めたばかりである。

Dienstag, 31. Mai 2011

好景気が「失業者三百万人」を押し下げる

ニュアンベルク・ベルリン

ドイツにおける失業者数が三百万人の壁を下回り、この年末までこの水準を保ち続ける見通しだ。

火曜日に労働に関する連邦機関が発表したところによると、五月に仕事を探している人は236万人という数になった。今回の数字は、四月の数字より11万8千人少なく、また去年よりも27万六千人少ない。2011年の末までには、労働に関する連邦機関は、より良い数字が出ることを期待している。「計算上(?)、三百万人を切った」とその機関の長、フランクユアゲンヴァイゼ氏http://de.wikipedia.org/wiki/Frank-J%C3%BCrgen_Weiseは述べた。労働力の需要は、やや弱まっているものの、依然として高い水準である。労働大臣のウアスラフォンデアレイエン(?)氏(CDU)http://de.wikipedia.org/wiki/Ursula_von_der_Leyenはこう述べた。「ドイツの労働市場はtopfitです(?)」

完全雇用への道

失業者の数は1992年五月以来の低水準まで落ちている。この減少は、毎年五月水準よりも少し抜けており、それは好景気と良い天気のおかげで、他の年(?)よりも早くがやってきたからだ(früherを無視した)、とヴァイゼ氏は述べた。経済学者たちはこの数字を楽観視している。「ドイツの労働市場は完全雇用へと大股で進んでいく(?)」とポストバンクの社長ティロハイドリッヒ氏は述べた

前回、11月に失業者の数は300万人を割った。そして今年(の11月)はもっとはっきりと数字が落ちるかもしれない。というのも、労働に関する連邦機関や、連邦政府は、たったの290万人と見込んでいるからだ。この数字はこの約20年来一番低い数字になるかもしれない。「280万人と言うのは厳しい」、とヴァイゼ氏は語る。「12月には、水準がやや上がる可能性もある。」労働に関する連邦機関のハインリッヒアルト氏はそう指摘する。その時までには、状況はよくなっている「余裕はまだある」というのも景気回復が不釣り合いな方向に進んでいるからだ。とある地域を見ると、二桁の失業率になっているところもあれば、2もしくは3%というところもある。ドイツ全体でみれば、失業率は7.3から7.0という水準まで落ちている。

ますます多くの人が賃金とパンを

好景気の追い風は労働市場の最高記録へと導こうとしている、仕事についている人の数は、統計に関する連邦機関によれば、四月に約20万5000人増え、4070万人となった。「ドイツ再統一以来、四月にこれほどの人が職についていることはなかった」と経済大臣のフィリップレーズラーは嬉しい悲鳴を上げる。たとえ好景気の勢いが弱まろうと、彼は然として良い知らせを期待するだろう。三月は2809万人が社会保険義務を???去年の水準の692000人多い計算になる。

ドイツの労働組合は、老人や資格のない人が挫折する、と批判した。「好景気は、厄介な(?)仕事ではなく、確かな仕事が現れて持続していくのだ」とDGB(労働組合)の会員のアネリエブンテンバッハ氏は述べる。SPDのハイル派のフーネアトゥスハイル氏は、一方で長期間の失業と他方で専門力が欠如している今の二分した(?)労働市場の危険性について警告する。緑の党に所属するフリッツクーン氏は、ヴァイス氏を非難している。労働市場の促進の短期化がそういった人たちを切り捨てているというのだ。

好景気は労働に関する連邦機関の財政的な失敗(?)を弱める

労働に関する連邦機関は好景気を自身の財政力によるものだと感じている。2011ねんの財政赤字は40億円を下回る、とヴァイセ氏はった。前回彼は、赤字はだいたい43億円だと見積もっていた。もともとは54億円だったのだが・・・
ハッレ経済研究機関のような専門家は2011年のドイツ経済は3.6パーセント成長するとし、来年も好景気が続くとしている。多くの企業が労働大臣のフント氏の保証に追随し投資と資本の増額をもくろんでいる。好景気は勢いとりわけその銚子を失うかもしれない。今回は機械投資と設備投資に充てられる。経済専門家は四月の注文を去年の22パーセントも多く記帳した。それゆえに、成長率は少し弱まっている。????

反対派に脱原発の参加を要求

SPDと緑の党は、原子力発電所の閉鎖について共同参加を求めている
クアトべックは連邦議会も参画することも要求している。ケムエズデミール氏は、脱原発の計画の修正をしたいと思っている。

SPDが第一党の臭では、黒-黄色(CDUとSPD)の脱原発計画を懐疑的にみており、連邦議会も参画することを求めている。「私たちはしっかりと明記された法律のもとに、この脱原発に協力してきたい」と、ラインランド・フラッツ州首相のクアトべック氏は述べた。「連邦政府が、今回はそれぞれの州をきちんと参加させることを期待している。」

アンゲラメルケル氏は金曜日にそれぞれの州の首相を、CDUとSPDの連立与党とFDPからの補助金があることを宣伝するために、エネルギーサミットに参加させた。SPDが率いる州では、とりわけ今運転を停止し、2013年まではスタンバイしている古い原子炉を、停電を阻止するために、場合によっては持ち続けるのではないかという目論見にたいして、厳しく批判している。

連立与党とFPDは月曜未明(日曜の夜)脱原発を遅くとも2022年までに実現ということを決定した。原子炉の多くは2021年までに閉鎖し、もし、エネルギーの代替に問題が生じた場合に、最新の原子炉を2022年12月31日まで使えるように稼働しておくというものだ。

緑の党の連邦議長のケムオズデミール氏は、緑の党が、この脱原発計画に真に参画することを要求した。「脱原発に関しては、そう簡単にはハンコおしてやらへんで。ほんまに」と彼はZeitオンラインで述べた。彼は連邦政府の計画に対する緑の党の賛成は政府の準備次第であるとした(????)緑の党にとっては、これは「全面合意」ではない。一つ、もしくはより多くの古い原子炉が、予備として利用可能な状態に保たれるからだ。「誰かが、連邦政府に説明せなあかん。原子力発電所っちゅうもんは、電気つけたり消したりとわけはちごうて、運転させたり、閉鎖するちゅうんは下端にはできひんちゅうことをな」

環境大臣ノルベルトレッティンゲン氏(CDU)は、反対派に対し、交渉の準備があることを示した。「今、他の提案をすることももちろん考えている。しかし、どうか我々に対する同意の意志と、協力の意識をもってほしい。」とドイツ連邦共和国公営放送連合で述べた。

脱原発計画への批判は、単純に反対派からだけではない。与党連合の議員団の議長代理のアーノルドヴァーツ氏はこう述べる「ドイツにとって、二度と良くはならない災難だ。脱原発の決定はこの国の競争力を取り返しのつかないほど傷つけてしまう。」CDUの政治家が中部ドイツ新聞で語った。

鉱山・化学・エネルギー産業別労働組合のトップであり、倫理委員会の一員であるミヒャエルヴァジリダイスは、連邦政府からのさらなる合図を待っている。「脱原発の期日とやり方に対して(?????)倫理委員会の薦めは受け入れられた。我々から語られる計画がどうなっていくかは政府にかかっている。そうでないと、委員会の仕事を尊厳を軽視することになる(?)」とPhoenix(テレビ局)の番組で述べた。

Montag, 30. Mai 2011

連立政権は脱原発へ決意。-反対派,なすすべなく。

ベルリン

原発の運転期間延長の決定から半年後、メルケル率いるSPDとCDUの連立与党とFPDは、彼らは、原発に関する計画を180度方向転換することを確定させた。

黒と黄色の連立(CDUとFDPのこと)は、月曜未明(日曜の晩)に遅くとも2022年までに複数の段階を経て、国内に17基ある原発の稼働を止めることで合意した。そして、フクシマの惨状を受けて、事実上、緑と赤(緑の党とドイツ社会民主党)が描いた脱原発ロードを踏襲することになる。黒と黄色は、電力の供給者に原発のメンテナンスや、転用を理由に終了時期を2022年以降に延期することを、許容しない構えだ。

反対派や、その周辺の団体などは、この計画的に批判的である。供給者であるRWE(http://www.rwe.com/web/cms/de/8/rwe/)は脱原発の動きに対し、法的になにか出来ないかと検討している。月曜の朝、メルケルが設置した倫理委員会は、脱原発決定の報告をした(?)「我々は倫理委員会の忠告を、基本方針とするであろう」
メルケルはそう確言した。詳細については、エネルギー政策転換への仮定の午後(もっと具体的になってから)に述べるつもりだった。

連立政権のこの計画では8基の古い原発(Krümmelを含め)はそのまま停止し、(福島を受けてチェックのために停止していた)、他の7つの原子炉は、2021年までに、最も新しい3つの原発については、2022年に停止すると、環境大臣のCDU/ノアベアトロェティゲンは夜の会議を締めくくった。「政府は原発の稼働期間の合計を、32年としている(2022年の10年先)。しかし決まったことは決まったことだ。最新の3つの原発についても2022年には稼働を停止する。」とロェッティンゲン氏は強調した。「この決定は絶対だ。修正や留保はあり得ない」

機関紙:エネルギーを特に必要とする産業の負担軽減へ

ロイター通信が公表したエネルギー転換の決定をを伝える機関紙(?)によれば、鉄鋼やアルミを製造するエネルギーに依存する産業については五億ユーロの補助金(?)で、負担を軽減する。場合によ手は、さらなる補助もありうると機関紙は述べている。それに加えて、住宅再開発計画には、2012年は15億円補助金を出す。電力消費を2020年までに10パーセント削減するためだ。

電気の安定的な供給を捕書するために、古い原発の一つを2013年まで、呼びの原発として待機させる、とロェッティンゲン氏は述べた。2016年まで燃え続ける核燃料(国家予算のうち年間20~30億円を投じなければならない)は廃止しない。政府は、このエネルギー政策の展開に際して、可能な限り広範囲からコンセンサスを得ようとしている。秋にやっと決定する原子力発電所のすでにに決まっていた運転期間の延長を再び見直すのである。進路の転換は、日本の福島原子力発電所の原子力発電所の事故に対するリアクションに他ならない。

緑の党は大賛成であるのだが、一方で緑の党の党首、クラウディア ロス氏はZDF(TV局)で「まだまだ未解決問題が山積してる」とも述べた。緑の党は、政府が予定していることが、明らかになってやっと一つの意見を形成することができた。似たようなことを夜の会議の後に、SPDの党首、ジグマーガブリエルも述べていた。

環境保護団体グリーンピースは、この猶予期間を、受け入れられないと主張している、メルケル氏が公約した2022年までというのは、最善を尽くしていないというのだ。「メルケルは約束を破り、福島からは何も学んでいない」

完、

Donnerstag, 26. Mai 2011

脱原発へ(スイス)

連邦議会は原子力発電所網をやめる。政治的プロセスがやっと幕を開ける。

連邦議会は、新しい原発を断念し、再生可能エネルギーを設置する。この計画の具体的な実行はしかし、原子力の議論の政治的な成り行きが不透明なのと同じく、まだ明らかではない。

水曜日、エネルギー大臣のドリス・ロイトハード氏は、連邦議会エネルギー戦略について、複数メディアに対し、「歴史的な日」について、語った。
徐々に脱原発に向けて進んでいくことが、連邦議会の非公開会議で決定した。(歴史的な日の内容)
現存する原子力発電所は、(現在の)稼働時期までは電力を生産するが、その後、その原子力に何か新しく投入することはない。それゆえに、Beznau原発とミューレベァク原発はそれぞれ2019年と2022年に、ゲスゲンのマイラー及びライプシュタットの原発はそれぞれ2029年、2034年に稼働が停止する。

エネルギー大臣は、福島の事故が、スイスのエネルギー政策を再調整させたことを明らかにした。「我々は、大事故を経験した。そして、(安全だと思っていた原発の)リスクが明らかになった。」と彼女は述べた。「我々は住民のリスクを減らすという信念から出発する。」政府はそう明記した。

~不明確な脱原発の時期~
しかし、ロイトハァド氏は経済的な理由についても述べた。というのは、「これまで経済的にメリットのあった原子力エネルギーは、再生可能エネルギーに対する比較優位を失ってしまう」からだ。厳しい安全規則、高まるリスクプレミアそして高い投資コストを理由に、原子力発電は、むしろ高くつく産業になる。一方で太陽光発電のイニシャルコストは安い。「長期的に見れば、原子力発電と太陽光発電のコストは同程度である」と氏は述べ、「脱原発は電気代の値上げにつながるかもしれない」という懸念を、うまく丸めこんだ。

脱原発の具体的な期日については、連邦議会は述べていない。原子力発電所の稼働期間は50年であると彼女は見積もり、そう述べたが、安全性が保障されてしまえば、60ねんとうこともありうる。逆に危険性を理由に早い期日に閉鎖することもありうる、とも述べた。

中期的な脱原発の仮定の決定において、連邦議会は三つのシナリオ(いつまで原発を稼働させるかというシナリオ)の中間をとった。氏によれば、是が非でも早い脱原発、というのは話にならない。早い時期に、危険性を理由に原子力エネルギーから脱することは必要ではないし、エネルギーの供給(保証)がままならない。連邦議会は、またこのシナリオを選ぶにあたって、これまでの発電比率(原発への依存度?)の観点に固執したのではないか、という懸念についても否定した。彼(誰?)は、今任意の形になっている原発の継続期間を一種のモラトリアム(猶予期間)と見たい経済団体からの提案をシャットアウトした。「我々が躊躇するとき、再生可能エネルギー分野の沢山の潜在的な投機を失ってしまう。」彼女はそう説明した。

氏は、しかしまた、一つの難しい決定についても話してくれた。確かに、今回の新しい電力政策はチャンスであり、また労働市場という観点からも魅力的ではある。しかし、「今日全体の電力の39パーセントを占める原発由来のエネルギーを別のエネルギーで代替することは、「有料」だということを氏は強調する。新しいエネルギー政策を実行する計画は、野心的であり、加えて具体的な準備計画の多くが未解決のままである。

未解決の問題の一つが、政治的急進に関するものだ。6.8の一つの大きな会議では、まず脱原発が議論されるだろう。政治的意思決定はスイスキリスト民主党、スイス保守民主党が作り上げる構想の蚊帳の外に置かなければならないものが2つある。社民党、緑の党、スイスキリスト民主党、スイス保守民主党がこの一連の動きを指示しているのに対し、自民党、人民党は、脱原発に反対の姿勢を示しているのだ。決定的なのは、キリスト民主党、自民党のライン(たぶん連立してた)からの離反者の数である。
もうひとつの未解決の問題が、6.16に原発会議が全州会議で執り行われるのだが、その内容としては、もし、連邦議会が賛成をした場合でも、実際には9月にならないと決定事項について遂行できないという事情がある。

ロイトハードはこう説明する。連邦政府は今か今かと国会の決定を待ちわびている。エネルギー大臣は、今回の場合は、国会の公式な意思決定すら、次なる連邦政府の政治的意思決定の為の絶対条件とはみなしていない。国民議会と全州議会は意志が隔絶しているからだ。

連邦議会からの新エネルギー政策の一つの公的なメッセージは、2012年の夏、もしくは秋の告知まで見送られる。エネルギー大臣はそう説明する。彼女は法律の再調整の見通しに際して原発に関する法律に加えて、他の布告も驚かされる(?????????????????)であろうという。国会は2013年まで法案を受け入れ、最終的には国民投票も可能かもしれない。それが、国民の最後の意志を反映させるチャンスである。

ロイトハード氏はこの件に関して国民が置いてけぼりをくらっているということを否定した

Dienstag, 17. Mai 2011

17. Juni 1953 und der 13. August 1961-der Bau der Berliner Mauer

Eine Aufstand zum 17. Juni 1953


- In den 50er Jahren wurde die Wirtschaft der DDR ganz fehlbewirtschaftet. Aus diesem Grund musste die SED ein Bündel von wirtschaftlichen und politischen Maßnahmen ergreifen. Zu diesen Maßnahmen gehörten die Erhöhung der Steuern und der Preise. Diese Maßnahmen erfolgten unter dem Motto „Mehr Arbeit für gleichen Lohn.“
- Folglich wurde der Wohlstand der Gesellschaft verringert und Lebensmittel wie Butter, Öl, Obst, Gemüse und Kartoffeln verknappten sich. Das war der Hammer!!!!!


- Am 17. Juni 1953 fand die erste große Demonstration in Ostberlin statt. Ab sofort kämpften in der ganzen DDR tausende Arbeiter für bessere Arbeitsbedingungen, mehr politische Freiheit und die Wiedervereinigung von Deutschland.
- Die Soldaten der DDR konnten die Leute kaum unterdrücken, deswegen wurde das Regime der DDR von sowjetischen Panzern gerettet. Mut und Steine auf der Straße waren die einzigen Waffen der Bevölkerung. Leider wurden 125 Demonstranten getötet und 61 300 verhaftet. Nach dem Aufstand vom 17. Juni wurde die Überwachung durch die Stasi ausgeweitet. Der Kampf in der DDR war der Anfang von weiteren Aufständen, wie beispielsweise in Ungarn 1956 und in der Tschechesslowakei 1968.
- Seit dem Volksaufstand am 17. Juni 1953 war die Kluft zwischen Bürgern und DDR-Regime immer größer geworden. Bis 1959 sind 145 000 Menschen nach West- Deutschland geflohen, auf der Suche nach einem besseren Leben als im Sozialismus. Die DDR bemerkte die massive Abwanderung, daher sollte eine Lösung gefunden werden. Die Antwort war „der Bau der Mauer“. Das war der Gipfelpunkt des Kalten Krieges, obwohl die DDR sie als Schutzwall betrachtet hatte.



Der Bau der Berliner Mauer

- 1949 war Berlin in 4 Zonen unterteilt. 3 Teile gehörten zum Westen und der andere zur Sowjetunion.
Für die Leute aus Ostdeutschland war der Westen wie ein Traumland. Aus diesem Grund flüchteten viele Leute aus der DDR durch Ostberlin nach West- Deutschland, wo es die Freiheit gab. Allein im Jahr 1959 flüchteten 145 000 Menschen.

- Die Politiker in DDR wollten die Flüchtlinge kontrollieren, was ihnen aber nicht gelang. Deswegen hatten sie die Idee, eine Mauer rund um Westberlin zu bauen um die Bevölkerung der DDR vom Kapitalismus zu schützen.

- 2 Monate vor dem Bau sagte Ulbricht in Ostberlin: „Niemand hat die Absicht, eine Mauer zu errichten“. Das war das erste Mal, dass jemand das Wort „Mauer“ benutzt hatte. Viele Leute versuchten in den Westen zu fliehen. Am 13. August 1961, dem „schwarzen Sonntag“, wurde bekanntgegeben, dass die Mauer nun zur Wirklichkeit wird. Nur in drei Tagen wurde sie aufgebaut. Einige konnten noch rechtzeitig fliehen, viele wurden jedoch festgenommen. Die meisten von ihnen wurden nach Fertigstellung des Baus getötet.

- Viele Familien waren getrennt, schmerzhafte Situationen, Rotz und Wasser heulten. Die Fröhlichkeit von Kinder wurde geklaut.Soldaten hatten die Vereinigung von Familien verboten. Ein trauriges Beispiel lautet so: Ein Unteroffizier der Nationalen Volksarmee (NVA) in Berlin sollte an die Sektorengrenze Stacheldraht bauen. Er sah während des Baus der Berliner Mauer ein weinendes Mädchen in Ostberlin, das seine Großmutter besuchten wollte. Aber die Kleine wohnte ursprünglich im West-Berlin bei ihren Eltern. Nun standen ihre Eltern auf der West Seite. Das Mädchen wollte die Grenze überqueren, aber sie konnte es nicht.

- Der Soldat hieß Conrad Schumann. Er war das Symbol der Freiheit. Ein naiver Teenager, der als starker Soldat verkleidet war. Wegen dieses Ereignisses entschied er sich, die Grenze unbemerkt zu überqueren. Diese Bild ist sehr bekannt, weil das ein Symbol gegen die Teilung und für die Freiheit ist. Er wurde der erste von 180 000 Flüchtlingen, der nach Westen geflohen ist. 1998 hat er sich umgebracht, weil er wahrscheinlich seine schleckliche Erfahrung nicht ertragen konnte.


- Die Mauer wurde ein Symbol für die Teilung der Welt in zwei Blöcke und den Höhepunkt des Kalten Krieges. Für die Deutschen bedeutete die Mauer für unbestimmte Zeit die Teilung ihrer Nation. Für die DDR-Propaganda war sie eine „moderne Friedensgrenze“ und ein antiimperiatistischer Schuzwall zum Schutz der eigenen Bevölkerung.

Montag, 9. Mai 2011

09052011 2

Die Euro-Finanzminiser hat stark behaubtet, dass hochverschuldetes Griechenland aus dem Verbund der Euro Staaten austreten soll.

Am Freitag gab es geheimlich ein Treffen mehrerer Euro-Staaten zum Tehma Griechenland.
Die Regierung des Griechenlands und europäische Institutionen hatten sofort verneint, dass so ein Treffen stattgefunden hat, aber später hat sie zugegeben.
Aber die Regierung des Griechenlans und einige Schlüsselfiguren des Euros verneinen dass Griechenland aus Euro austreten will oder soll.
Nach dieser nachricht wurden Euro in großen Mengen verkauft, aber seit Anfang dieser Woche haben die Rückkäufe begonnen.

09052011 1

Wegen der japanischen Katastrophe hat die Grüne in Baden-Württenberg bei letzten Wahl gewonnen.
Auf Sonderperteitage, die am letzten Samstag stattgefunden hat, haben SPD und die Grüne ihnen Koalitionsvertrag angenommen.
Also ist es sicher, dass ein Parteileiter der Grüne sich am Donnerstag als erster grüner Ministerpräsident in Deutschland stellt.
In der Besprechung zwischen SPD und Grüne gab es kaum Kritik, um diese Vereinbarung erfolgreich zu schaffen.
Dafür müssen diese zwei Partei natürlich einen Kompromis übers Bahnprojekt Stuttgart21 einschließen, aber es ist noch unklar, was diese Projekt angeht.

Mittwoch, 4. Mai 2011

Eine Szene der Reise nach Berchtesgaden.

Wegen meines Schnurchens habe ich mit meiner Begleitin gestritten. Deswegen wollte ich im Zimmer nicht 
bleiben.Ich lief herum und betrat Hofbreuhaus. Ich trank ein Glas Bier allein. Plötzlich sagt Männer zu mir, 
die am nöchsten Tisch saßen.Hey, Chinese! Komm zu uns!" Wie nett sind sie.Ich setzte mich bei ihnen und
 wir toasteten auf einen Mann, dessen Geburtstag gestern war.Sie kamen aus österreich, also konnte ich 
wegen starkes dialekts nicht verstehen, was sie sich miteinander unterhielten. Aber es klang wie Französich,
aber gut.Sie sprachen für mich 
auch Hochdeutsch. Weil es ein Geburtstagparty ist, wurden wir freigehalten. Wir unterhielten uns über Politik, 
Fukushima, und Mädel, Mädel, Mädel.
Nach einem teilnehmer sind sie alle ungefähr 30 Jahre alt.Sie sah sehr lustig aus. Unter dem Einfluss des 
Alkohols lachte ich immer.


---korrigiert---                                                                                                                                                

Wegen meines Schnarchens habe ich mit meiner Begleiertin gestritten. Deswegen wollte ich
nicht(1)im Zimmer nicht bleiben.Ich lief herum und betrat das Hofbräuhaus. Ich trank ein Glas
 Bier allein. Plötzlich sagten(2) Männer zu mir, die am nächsten Tisch saßen, zu mir(3). "Hey,                                    Chinese! Komm zu uns!" Wie nett von ihnen sind sie.Ich setzte mich zu bei ihnen und wir 
toasteten auf einen Mann, dessen Geburtstag am Tag zuvor(4) gestern war.Sie kamen aus 
Österreich, also konnte ich wegen des(5) starkes Dialekts nicht verstehen, über(6) was sie 
sich miteinander unterhielten. Aber es klang wie Französich, irgentwie(7) gut.Sie sprachen 
für mich auch Hochdeutsch. Weil es ein Geburtstagparty war, wurden wir eingeladen freigehalten.
Wir unterhielten uns über Politik, Fukushima, und Mädel, Mädel, Mädel.
Nach einem teilnehmer Einem Teilnehmer zufolge(8) waren(9) sie alle ungefähr 30 Jahre alt.
Sie sahen sehr lustig aus. Unter dem Einfluss des Alkohols lachte ich (immer) immerzu / die ganze Zeit.


(1) 部屋にとどまりたくなかった、(他の場所ならいい)、とにかくその部屋にはとどまりたくなかったと明確に表現するために、nichtをim Zimmerのまえへ。
(2) ここ、本当は突然物語が急展開するときに使われる現在系(ドラマティック現在系と勝手に呼んでいる)を使ったのだけれども、だめらしい。
(3) 関係代名詞を文末に持ってきたらわかりにくくなるので、なるべく主文の中に関係代名詞を組み込む
(4) 物語中でgesternは話者が読んでる日付の一日前、を表すの(今日が五月四日だから、五月三日しか示さない)で、物語中では、am Tag zuvorを使う(次の日は?)
(5) Hofbräuhausもそうだけど、定冠詞、不定冠詞無視しすぎ。ともに周知概念の定冠詞
(6) これって、Worüberじゃないのか?
(7) でた、irgentwie.なんとなく
(8) nachは~の後で という意味が強いので、nach meiner Meinungとかそういう使い方のnachもあるが、zufolgeのほうが意味が明確になる(例 einem Gerücht zufolge 噂によれば)
(9) その話を聞いたのは過去だから。


時制の一致がないという点がまたよくわからなくなった。

Montag, 2. Mai 2011

Ich machte einen Ausflug in der Umgebung meiner Stadt.
Man kann eine Therme und schönen Wasserfall als dortige Sehenswürdigkeiten anführen. Sehr kleine Stadt.

Ich trunk am Mittag vor einer Cafeteria an einem runden Tisch sitzend einen Tasse Kaffee.
Eine grüne Raupe kriechte an der Tischdecke herum. Sie suchte Blätter, die sie essen wollte. Aber sie konnte nicht die Blätter finden, weil es keine Blätter da gibt. Dieser kleine runde Tisch war ihr zu Groß. Wenn ich sie wäre, würde ich mich fühlen, wie ich allein auf der Weld wäre und ich wäre ganz durcheinander. Sie müsste auch so ein Gefühl haben,dachte ich so. Ich streckte mein Finger vor ihr aus und legte sie darauf. Ich bewegte meinen Finger zu einer unbekannten roten Blume, die im Blumenbeet an die Straße blühte. Die Blume sah trocken aus. Vielleicht verwelkt sie in einen paar tage. Auf so einer Blume kriechte sie brav.

Hatte die Raupe einen Glück? Ich weiß nicht, ob sie länger leben kann, Ich half ja ihr, darum doch niemand sagen kann, ob es ihr wirklich hilfreich. Ich half ihr. Auf diesem Gründ mag sie durch einen hungrigen Vogel gefressen werden.

In der welt gibt es kein Gute oder Böse, weil niemand von unserer Zukunft weiß. Eine Tat, die man als Gute betracht, kann sich ins Böse verwandeln. Niemand kann sagen, ein Mörder sei wirklich ein Böse, weil "Die Leidende" viel mehr Leute in der Zukunft umbringen können würde, wenn er noch lebendig wäre


----------(↓訂正後)----------

Ich machte einen Ausflug in der Umgebung meiner Stadt.
Man kann eine Therme und einen schönen Wasserfall als dortige Sehenswürdigkeiten anführen. Eine sehr kleine Stadt.

Ich trank am Mittag im Vorhof (1) einer Cafeteria an einem runden Tisch sitzend eine Tasse(2) Kaffee.
Eine grüne Raupe kroch auf(3) der Tischdecke herum. Sie suchte Blätter, die sie essen wollte. Aber sie konnte die Blätter nicht(4) finden, weil es keine Blätter gab. Dieser kleine, runde Tisch war ihr zu groß. Wenn ich sie würde, würde ich mich fühlen, als wäre(5) ich allein auf der Welt und ich wäre ganz durcheinander. Sie müsste auch so ein Gefühl haben, so dachte ich. Ich streckte meinen Finger vor ihr aus und legte sie darauf. Ich bewegte meinen Finger zu einer unbekannten roten Blume, die im Blumenbeet an der Straße blühte. Die Blume sah trocken aus. Vielleicht verwelkt sie in ein paar(6) Tagen. Auf so einer Blume kroch die Raupe brav.

Hatte die Raupe (7) Glück? Ich weiß nicht, ob sie länger leben kann. Ich half (8) ihr zwar, doch niemand kann sagen, ob es wirklich hilfreich war. Ich half ihr. Aus diesem Grund mag sie viellecht durch einen hungrigen Vogel gefressen werden.

In der welt gibt es kein Gut oder Böse(9), weil niemand von unserer Zukunft weiß. Eine Tat, die man als gut betracht, kann sich ins Böse verwandeln. Niemand kann sagen, ein Mörder sei wirklich der Böse, weil "das Opfer"viellecht in der Zukunft viel mehr Leute umbringen könnte(10), wenn es noch leben würde.(11)

1. vor einer Cadeteriaだと、カフェの敷地外になってしまう。敷地内であると明確に言いたいときにはIm Hof, Im Hinterhof, Im Vorhofを状況に応じて使う。
2. eine Tassee Kaffee の eine は Tasseに由来する。そもそもkaffeeは男性。
3. なぜかanを使ったが、an テーブルクロスの脇にそれずに動くことになる。。auf.
4. nichtはなるべくあと。 もしくはkeine Blätter でもいい
5. 接続法のところで最重要点の一つであるals obを完全に頭から消去していた。痛恨のミス。
6. ein Paar tage で相場は決まっている。einの変化が~と屁理屈をこねないことが大事。
7. 要検討(なぜ無冠詞か)
8. jaはたとえば話者に責任がないことを強く言うために使ったりする。むずかしい。「はい」以外のja.
9.Gut oder Böseで決まり文句。文法的にはdas Gute が正しい。
10. umbringen könnte もしくは umgebracht hätteも使える。未来完了(?)
11.lebendig seinは動物などにも使うのでやや違和感。素直にlebenを使うと人間が生きている となる。

!!1. 「私は確かに芋虫を助けた。しかしそれが本当に彼女(芋虫)の助けになったのかは、誰もわからない」的なニュアンスが一番難しかった。基礎構文zwar aberを使うとすんなりいく。

以上。

Sonntag, 1. Mai 2011

Eine Szene der Reise nach Berchtesgaden.

Wegen meines Schnurchens habe ich mit meiner Begleitin gestritten. Deswegen wollte ich im Zimmer nicht bleiben.Ich lief herum und betrat Hofbreuhaus. Ich trank ein Glas Bier allein. Plötzlich sagt Männer zu mir, die am nöchsten Tisch saßen.Hey, Chinese! Komm zu uns!" Wie nett sind sie.Ich setzte mich bei ihnen und wir toasteten auf einen Mann, dessen Geburtstag gestern war.Sie kamen aus österreich, also konnte ich wegen starkes dialekts nicht verstehen, was sie sich miteinander unterhielten. Aber es klang wie Französich, aber gut.Sie sprachen für mich auch Hochdeutsch. Weil es ein Geburtstagparty ist, wurden wir freigehalten. Wir unterhielten uns über Politik, Fukushima, und Mädel, Mädel, Mädel.
Nach einem teilnehmer sind sie alle ungefähr 30 Jahre alt.Sie sah sehr lustig aus. Unter dem Einfluss des Alkohols lachte ich immer.

Samstag, 30. April 2011

eine Raupe

Ich machte einen Ausflug in der Umgebung meiner Stadt.
Man kann eine Therme und schönen Wasserfall als dortige Sehenswürdigkeiten anführen. Sehr kleine Stadt.

Ich trunk am Mittag vor einer Cafeteria an einem runden Tisch sitzend einen Tasse Kaffee.
Eine grüne Raupe kriechte an der Tischdecke herum. Sie suchte Blätter, die sie essen wollte. Aber sie konnte nicht die Blätter finden, weil es keine Blätter da gibt. Dieser kleine runde Tisch war ihr zu Groß. Wenn ich sie wäre, würde ich mich fühlen, wie ich allein auf der Weld wäre und ich wäre ganz durcheinander. Sie müsste auch so ein Gefühl haben,dachte ich so. Ich streckte mein Finger vor ihr aus und legte sie darauf. Ich bewegte meinen Finger zu einer unbekannten roten Blume, die im Blumenbeet an die Straße blühte. Die Blume sah trocken aus. Vielleicht verwelkt sie in einen paar tage. Auf so einer Blume kriechte sie brav.

Hatte die Raupe einen Glück? Ich weiß nicht, ob sie länger leben kann, Ich half ja ihr, darum doch niemand sagen kann, ob es ihr wirklich hilfreich. Ich half ihr. Auf diesem Gründ mag sie durch einen hungrigen Vogel gefressen werden.

In der welt gibt es kein Gute oder Böse, weil niemand von unserer Zukunft weiß. Eine Tat, die man als Gute betracht, kann sich ins Böse verwandeln. Niemand kann sagen, ein Mörder sei wirklich ein Böse, weil "Die Leidende" viel mehr Leute in der Zukunft umbringen können würde, wenn er noch lebendig wäre


Mittwoch, 6. April 2011

^teikei

副文章の定型後置

副文章においては、文頭に従属接続詞か関係しがあり、それゆえに定型が後置詞、さらに主文章との境目にはコンマが打ってある。

その例外

①従属接続詞wenn, obの省略による定型後置(副文扱いではなくなり、後続の主文は動詞を頭に持ってきてはいけない)
Hätte ich 100000000 Euro, ich gäbe dir 50000Euro.
Ist er schwul, ich kenne nicht.

②dassの省略による定型正置
Ich glaube, Japan entwickelt sich wieder trotz der Katastrophen.
(間接話法は、dassを使わないほうがよい。

③主文章と副文章の境目にはコンマを打つのが原則であるが、先置された副文章の次にコロンを打つことがある。それは、副文章が容認文章であるか、断り書きの文章であることが多い。
Magst du recht oder unrecht haben: du musst mir immer zuhören

主語の強調後置

主語、殊に未知概念たる主語を強調する多面、特に後ろに後置し、そのけっか、重要性の低い文肢や既知概念たる他の文肢が定型と主語の間に挟まることがある。

Ihm muss bei solchen Fleiß das Werk gelingen.
未知概念はgelingenのみ。ただ、仕事の成功という概念が道なので、主語がgelingenの近くに置かれる。


このような主語の倒置が行われた時、文頭に意味のないesを置くことができる。このときのesを論理上の主語という。

Montag, 7. März 2011

ピータードラッカー晩年の詩

もう一度人生をやり直せるなら・・・・
今度はもっと間違いをおかそう。
もっとくつろぎ、もっと肩の力を抜こう。
絶対にこんなに完璧な人間ではなく、もっと、もっと、愚かな人間になろう。
この世には、実際、それほど真剣に思い煩うことなど殆ど無いのだ。

もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。
もっとたくさんのチャンスをつかみ、行ったことのない場所にももっともっとたくさん行こう。
もっとたくさんアイスクリームを食べ、お酒を飲み、豆はそんなに食べないでおこう。
もっと本当の厄介ごとを抱え込み、頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう。
もう一度最初から人生をやり直せるなら、春はもっと早くから裸足になり、秋はもっと遅くまで裸足でいよう。
もっとたくさん冒険をし、もっとたくさんのメリーゴーランドに乗り、もっとたくさんの夕日を見て、
もっとたくさんの子供たちと真剣に遊ぼう。
もう一度人生をやり直せるなら・・・・

だが、見ての通り、私はもうやり直しがきかない。
私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?
自分に規制をひき、他人の目を気にして、起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、
構えたり、落ち込んだり ・・・・
もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、たまには馬鹿になったり、無鉄砲な事をして、
人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。
人生は完璧にはいかない、だからこそ、生きがいがある。

- P.F.ドラッカー 享年95歳-

Mittwoch, 2. März 2011

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