Freitag, 1. Juli 2011

ドイツ赤軍RAF② 

77年の攻撃

日本赤軍の重要人物である、アンドレアス・バーダー、グドルン・エンスリィン、ヤンカール・ラスペ、イルムグラード・メラーが、新設されたシュトゥットガルトのシュタムハイムの刑務所に1972年以来とらわれている間、すでに、ドイツ赤軍の第二世代が組織されていた。彼らの目的は、前述の重要人物の解放であった。その目的の下で、「77年の攻撃」と題した「国家心臓部への攻撃」を計画していた。

1977年4月7日 連邦検事総長ジークフリード・ブーバックの殺害

ブーバックが、信号待ちをしていた時、その横にっ二人の男がオートバイで横付けし、彼の乗る車の中に15発もの弾丸を浴びせた。間もなくウルリケ・マインホーフのドイツ赤軍の命令だったということが知れ渡る。しかし、ドイツ赤軍に対し、それ以上の影響をもたらすという目標は、とん挫する。

1977年7月30日 ドレスデン銀行社長 ユルゲン・ポントの殺害
ポントはその時、名付け子であるスザンネ・アルプレヒトと二人の友人を家に迎えていた。しかし、その三人は、実は誘拐の命令にしたがって、彼の家に潜入していたの人質をとって連邦政府を動かす」という目的は、またも失敗に終わった。

1977年9月5日 経営者連盟会長ハンス=マーティン・シュレイヤーの誘拐

5人のマスクをしたドイツ赤軍の構成員グループ”ジークフリード・ハウスナー”は、シュライヤーの運転手と、3人の警察官を殺害し、彼を誘拐した。彼は7週間もの間、誘拐犯の下におり、つくりつけの戸棚に縛られていた。テロリストは11人の拘束されているドイツ赤軍のメンバーの釈放を求めた。国はボンに2つの緊急対策本部を敷いた。連邦政府は毅然さを保ち、野党も最前線をサポートした。このほぼ期限付きの大連立与党はテロリストの釈放の要求に屈さなかった。このことは、報道されることもなく、ドイツ赤軍の囚人は、外界から遮断された(?)
前線では激しさを増したかのように思われた。しかし、この最中に次なる人質の確保計画が進められていたのである。

1977年10月13日 ランズフート(航空機)のハイジャック

ドイツ赤軍は、1970年からドイツ赤軍に訓練の場を与えていたパレスチナのテログループPFLP(パレスチナ人民解放軍)の助けを得た。ルフトハンザ機のランズフートは、離陸の1時間後に4人のテロリストにハイジャックされた。保養島マロッカからフランクフルトまで帰郷するはずだった82人の乗客の106時間にもわたるオデゥッセイアの幕開けである。テロリストたちは、人質に暴行を加えた。この”公開処刑”は日程に含まれていた。航空機の中では時として摂氏50度に上る時もあり、尿、汚物、血、吐しゃ物の匂いが立ちこめた。

ランズフートはまずローマに着陸した。そこで彼らは燃料の詰め替えを行い、キャプテン・マハムードと自ら名乗り、実際にはZohair Youssif Akacheという名のテロリスト集団のリーダーは、初めて彼らの要求を述べた。その要求はシュレイヤー誘拐の際と同じものだった。11人のドイツ赤軍の囚人たちの釈放である。加えて、彼らはパレスチナ解放人民軍の同僚である二人のトルコ人の囚人の解放と、1500万USドルを要求した。ローマからの飛び立った飛行機は、ラルナカ、バーライン、ドバイを経由しながら飛んで行った。しかしその後、このハイジャック機を受け入れるという国はなくなってしまった。しかし燃料が底をつき始め、パイロットにアデンの砂地に緊急着陸するほかに、取れる手段がなくなってしまった。着陸したのち、機長のユルガン・シューマンは砂地に着陸した際に航空機の離着陸用の脚に異常をきたしていないか点検るするために、飛行機から降りた。しかし、その後、なかなか基調は帰ってこなかった。キャプテン・マハムッドは彼を信頼しなくなり、最終的に飛行機の中で殺された。この飛行機はあらたに給油され、モガディッシュへの渡航を続けた。ソマリアの首都である。そこで、テロリストは、殺した機長を滑走路の上に投げ捨て、最終通告を告知した。もし、彼らの要求が12分以内に達成されない場合、この飛行機は再び飛びさる。と。

そうこうしている間の10月15日。緊急対策本部は人質の強制解放の決断をする。特別部隊である国境保安隊第9・GSG9(Grenzschutzgruppep)がボンから動員された。ソマリアの大統領と、モガディッシュでドイツの部隊が作戦を実行することの許可を得るために交渉したのちに、10月18日0時05分、黒い服をまとった隊員たちが、機内に強硬侵入した。3人のテロリストが銃弾が浴びせられ死亡、乗客、乗務員含めて86人が無事に解放された。

10月18日 バーダー、エンセリン、ラスペの自殺

朝方、この三人が彼ら野テントの中で死んでいるのが発見された。この自殺はまた、誘拐されていたシュレイヤーの運命も決定づけるものだった。

10月19日 シュレイヤーの遺体の発見
経営者連盟会長のシュレイヤーが、ミュールーズに止められていた遺体の姿で緑のアウディーのトランクの中で発見された。ドイツ赤軍の構成員が、頭に3発の銃を撃ち、殺したのであった。

Keine Kommentare:

Kommentar veröffentlichen