Donnerstag, 30. Juni 2011

ベンノ・オーネゾルグの死

ベトナム戦争や、大学への抗争、そして、緊急事態法へのデモは、路上でますます行われるようになった。
1967年6月2日。
ペルシャ皇帝、レヴィ・パーレヴィとその妃がベルリンに訪れた。この皇帝の訪問は、テレビでも体大的に放送され、また、イランの皇帝の政治について、反対するために、非常に多くの抗議者と野次馬がでた。この皇帝というのは、いわゆる独裁者であり、彼の指示に反対する国民を逮捕したり、    したりといった、野蛮な措置をとっていた。
学生たちは、イランのこのような状態を知ると、動揺し、憤慨した。若い彼らの怒りのパワーの矛先はこの皇帝だけでなく、ペルシャに賛成しているドイツの政治家に対しても向けられた。それに対し国は国賓を守るために30000人もの警察官を動員した。

皇帝が、シェーネベルクの市庁舎の前に来た時、すでに2000人にのぼるデモの参加者が、ケネディー広場に集まっていた。イランの防諜員サヴァックもそこにいた。皇帝とその妃は市役所の中に入ったとき、突然ペルシャ人は鉄の棒などを用いて、野次馬と抗議者の集団を攻撃した。しかしこの恐ろしい攻撃に警察官たちは、ペルシャ人たちを制すことなく寧ろ、ゴムの棒でデモの参加者たちをたたいて応戦したのであった。
その夜、皇帝夫妻、大統領、市長が訪れると知った皇帝の抗議者や野次馬たちはシャルロッテンブルクのオペラの前に集結した。そして彼らに対し石や卵、カラーボールが投げたのである
ベンノ・オーネゾルグというローマ学、ドイツ学を専攻していた学生にとっては、その日初めて政治的デモに参加だった。しかしその学生は不幸にもデモの抑圧の名の下にのカール・ハインツ・クラス警部補(当時39)は彼を意識がなくなるまで殴られ続けた。そして、詳しい状況はわかっていないが、ベンノは、この警部補によって、撃たれた。
誰も銃声を聞いていなかった。彼は、病院に運ばれ、間もなくなくなった。しかし、警部補が、有罪判決を受けることはなかった。

今日のAlex Spriger AG http://www.axelspringer.de/en/index.html のオーナーであるアレックスシュプリンガーは、当時新聞記者だった。学生運動の流れの中で、アレックスは
とりわけビルト紙に彼の保守的思想を書いていたのだが、彼は、ベンノの死去以降、左翼学生たちを否定的にとらえた記事を書いた。
このシュプリンガーの記事は、50年代と60年代の高度経済成長社会を通じて形成された社会に疑念を抱いている人を論破した。それを持って、学生運動にするどいメスを入れることで、学生運動を罪ある行為とした。1968年のルーディデゥチュケの暗殺についても、アクセルによって、ネガティブなものとして、そのビルド紙に載せられた。

Sonntag, 5. Juni 2011

DDR史③

日常

DDRでは、1958年まで配給制が続いていた。そのため、買い物の為の「生活必需品券」(国から発行される文書で、その所有者は定められた配給品を定められた量受け取ることが出来る)が必要で、スーパーの前には長蛇の列がずっと並んでいた。
いくつかの消費財は常に不足していた。価格と給料は国家によってだいたい決められていた。国は特に日常生活に欠かせない商品の売価の統一に関して補助金をだした。この国のモットーに反して、輸入することのできた電気機器や製品はたいていとても高かった。
高価、高級な商品は、いくつかのチェーン店で買うことができた。高級食材店での食材や、高級な洋服屋における最新の洋服などがこれに当たる。

DDRの人々はどこに住んでいたのだろうか。うわゆるパネル建築(Plattenbauten)という建築物がDDRのあちこちに建てられていった。
この建築物は概ねできあがりのコンクリートで出来た建て物であり、天井や壁も工場でつくられた出来上がりのものでつくられていた。この組み立ては比較的早く行うことができ、工場での生産も早く行うことができた。しかし、これにはデメリットもあった。たとえば壁が薄すぎるために、となりの人が何をしているのか、何を話しているのか筒抜けだったのだ。

一台の車を買うために、申し込みをしてから最長で15年間またなけれ場ならなかた。やみ市では一部でその長い待ち時間を回避することもできあ。トラバントのような典型的な車は新車で、待てば10000東ドイツマルク、待たずに闇市で買おうとすると、その三倍の値段がした。

車の生産のはじめに、トラバントは国民車として受け入れられ、中級階層の人々が自動車を手に入れた。
車を持っている人は、トラバントを持っている。この国民同水準化はDDRが、西側のシステムと差別化を測る時に用いた基本方針であった。

監視(シュタージ)

国家保安局はシュタージと呼ばれ、DDRの秘密組織であった。1950年に設立された。この組織の重要人物としては、長い期間国家保安相を努めたエアリッヒミールケがあげられる。彼は1957年から、壁の崩壊まで勤め上げた。シュタージの各県の管理はDDRの一般地方自地と似たような手法で行われた。彼には、国、軍、工場、官庁に指示系統が存在していた(?)監視網は、無数の秘密の同業者で構成されていた。とりわけ手紙の検閲や、電話の監視を通して行われていた。

1989年には85000人のシュタージ職員と、174200人の秘密の同業者が働いていた。官庁の活動は、主にこの国にふさわしくない思想を持つ人や、反社会勢力、そして政治に対して反対する人にもむけられた。職務の範囲は、特に公民権運動のシンパ、宗教や自然保護団体、批判的な芸術家だけでなく、国家保安局の圧力と尾行の中心的役割を持つ組織に入りたいという意志を示した人にも行われた。

DDR史②

イデオロギーとプロパガンダ

他の共産主義国と同様に、DDRの政策の中で、プロパガンダは大変重要な意味を持っていた。その目的は、西側諸国の資本主義を批判することだった。すべてのメディアがSEDによる検閲を受けていたために、プロパガンダは常に日常にあふれていた。その好例としては、ニュース番組の「Aktuelle Kamera(時事カメラ)」や「Schwarze Kanal(黒い運河)」等があげられる。

「Aktuelle Kamera」はDDRのテレビ番組の中で、代表的な番組であった。内容としては、その多くが中央委員会の活動や、SEDの党大会、公的な理由での外国訪問などが主であり、そのほかに工業や農家における製品や作物の誤った改善(?)が報じられた。「schwarze Kanal」は政治扇動的な放送だった。西側のテレビの一こまだけを切りぬいて放映そ、そのあとに東側の観点からそれについてコメントしていった。この放送は、東側でも放送が見れ、人気のあった西側のテレビ放送への、西側の応答だった。”テレビ放送を介した共和国逃走”と呼ばれている(?現実逃避していたということか?)

真偽は置いておいて、並々ならない偉業を達成した個人は、ジグムントヤーン(ドイツ初の宇宙飛行士)やアドルフヘネッケ(ドイツの炭鉱夫・SEDのリーダーによって、ロシアの炭鉱夫アレクシライシュタッハノウの模範に引きづ付いてDDRの中でも代表的な炭鉱夫を、ということで選ばれた)のように、国家の英雄とされた。

文化

スポーツもDDRの形成において重要な観点である。DDRの憲法には世界で初めて、学校や国民スポーツといった身体的健康形成を推進が明記された。その中でもとりわけ重要だったのが、子どもと若者の健康であった。しかし人々はそう簡単に古来の理想「健康な肉体に健康な精神が宿る」へ戻っていくことは出来なかった。豊かなBDRでは、この東側のスポーツは復讐を象徴し,プロパガンダがそのあかしだった(?)
1972年のミュンヒェンオリンピックはとりわけ重要だった。初めてオリンピックで「DDR」選手団が、DDRの旗の下で行進することが許された。このオリンピックではDDRは合計で20の金メダルをとり、世界で三番目のメダルの数を記録した。
しかし、選手の準備に関しては、「許されざる手法(ドーピング)」が行われた。国歌は年間100万人もの研究者を、ドーピング研究に従事させるために投じた。

スポーツと並んで、芸術や文化は東側における重要な部分である。DDRの文化はドイツの労働運動の伝統と、ソビエトかを混同させ、とりわけ最終的には個人崇拝へと導くものだった(?)
BDRがデカダンのモダン主義を達成したのに対し、DDRは社会主義的現実であった。この動きの三つの原則とは①労働者の側に立っていること(芸術家は自由と社会主義の理想を渇望する活発な同志でなかればならない)②民俗の統一(芸術は国民をまとめ、自意識のレベルと求められるところまで導かなければならない)③社会主義的理想を持っていること であった。 文化はベルトルドブレヒトのようにマルクス的な思想に寄り添うというところに根ざしていた。ベルトルドブレヒトはSEDによって持ち上げられ、多くの賞を受賞した(たとえば国民栄誉賞一級, 1951年)

DDR史①

導入

”Auferstanden aus Ruinen”(破滅からの復興)は1949年から1990年まで片方のドイツの国家のタイトルであった。その国の名はドイツ民主主義同盟DDR。労働者と農業従事者の社会主義国家であった。この国家は、他の東側諸州と同じくソビエトの占領地区から生じ、ソビエトの占領領域に所属していた。

この国家の権力は、社会統一党ドイツ(SPD)が、実質唯一の党として存在していたため、この国は独裁国家であった。DDRの政策とイデオロギーは、マルクス主義、レーニン主義そしてソビエトにやりかたを踏襲し、決定された。

SEDが掲げたプロパガンダは、いわゆる「労働英雄」と呼ばれるもので、炭鉱労働者のアドルフヘネッケや、宇宙飛行士のジグムントヤーンなどがそのスローガンのもとで、重要な人物でとしてあげられる。文化やスポーツ分野に関しても、その開花がDDRの人々に、効果的に自信と模範を促し、示す術として、発展していった。

多くの人々が、独裁政治と監視のために、プライベートにひきこもっていたので、日々の生活は、こそこそ行われていた。生活の目印(?)はDDRの手中にあった。店の前に出来る長蛇の列、簡単な作りの家々や、典型的な形のトラバントと称された自動車・・・。
シュタージ(国家保安機関)は、反国家主義的思想を持つ人を監視する機関であった。

政治


DDRの政策の基本は、SPDとKPD(ドイツ共産党)が1946年4月21日に合併してできたSEDである。この合併は少なくともSPDの議員の大部分の意志に反して、目的をもってソビエトの力によって合併された。 ヴィルヘルムピーックとオットーグローテヴォールが握手をしているこの写真は、ドイツ戦後史の中でもとても重要な物の一つとして数えられている。
DDRの実質上の権力は、SEDの中央委員会の政治局であり、政府はその下で従順していた。政府は人民議会によって選ばれ、戦術としての人民作戦で支持されたそれぞれの党から大臣が選ばれた(?)しかし、本当の国家権力はZK(中央委員会)が掌握していた。

DDRの外交的自立は事実上制限され、この国は、ソビエトに左右される衛星国家にすぎなかった。ソビエトとのこの密接な関係は、生活のすべての面で、反映されていた。しかし、DDRもBRDのように、ドイツ全土の統一を願っていた(?)この「SED国家」は経済相互援助会議,ワルシャワ条約機構に参加した。ゲルリツッアーの同意はDDRはオーダー・ナイセ戦で分割されるドイツとポーランド間の国境によって大きな意味を持っていた。

Mittwoch, 1. Juni 2011

FDPの一派閥が南独の核処理施設を模索

FDPの一派閥の長、ライナーブリューデレ氏は、南独で各処理施設捜索の拡大を行うことを表明した。

「ニーダーザクセン州にある現在のゴルレーベン処理場は、最終的に偵察・検討されなければならないが、同時に他の候補地も考えなくてはならない。」と前経済産業省大臣が語ったとハンブルク紙の夕刊で報道された。「もしバイエルンとバーデンビュルテンベルクに適した場所を探す準備があれば、我々はその提案を受け入れるべきだ。」ヨーロッパ連合は、ドイツをスピーディーに廃棄処理施設の捜索を行うよう仕向けた。ドイツは何年も二―ダーザクセンのゴルレーベンを廃棄場所として、そこにある岩塩ドームの使用を試みてきた。週末のサミットでは、内閣はしかし他の処理場の模索が未着手だということを指摘した

ブリューデレ氏は要求に反対している。「連邦議会は目下推進中の脱原発に賛成しなければならない。私たちの法務大臣(内務大臣、法務大臣)たちは、エネルギー転換への法律に必ずしも賛成しなければならないというものではないという成果に至った。」

連邦予算におけるエネルギー転換の予算をブリュデーレ氏は年間20億ユーロと概算している。「消費者にとっては簡単には見積もることのできないコストとなるだろう。」

彼はこうもエネルギー転換についてこうも述べる。しかし、「彼らの状況における私たちの立ち位置までも、ヨーロッパにある一政府によって分断されるということはほとんどない」ことをあきらかにした。「一つの州だけでは、安全保障上の問題は解決されえない。」「我々は感じなければならない。イギリス人が「ドイツ人の不安」と揶揄することが何なのか」とブリューダー紙は述べた。日本の原発事故から三か月が過ぎ、連立与党とFDPは2022年までに脱原発を遂行するということを決めたばかりである。