ベトナム戦争や、大学への抗争、そして、緊急事態法へのデモは、路上でますます行われるようになった。
1967年6月2日。
ペルシャ皇帝、レヴィ・パーレヴィとその妃がベルリンに訪れた。この皇帝の訪問は、テレビでも体大的に放送され、また、イランの皇帝の政治について、反対するために、非常に多くの抗議者と野次馬がでた。この皇帝というのは、いわゆる独裁者であり、彼の指示に反対する国民を逮捕したり、 したりといった、野蛮な措置をとっていた。
学生たちは、イランのこのような状態を知ると、動揺し、憤慨した。若い彼らの怒りのパワーの矛先はこの皇帝だけでなく、ペルシャに賛成しているドイツの政治家に対しても向けられた。それに対し国は国賓を守るために30000人もの警察官を動員した。
皇帝が、シェーネベルクの市庁舎の前に来た時、すでに2000人にのぼるデモの参加者が、ケネディー広場に集まっていた。イランの防諜員サヴァックもそこにいた。皇帝とその妃は市役所の中に入ったとき、突然ペルシャ人は鉄の棒などを用いて、野次馬と抗議者の集団を攻撃した。しかしこの恐ろしい攻撃に警察官たちは、ペルシャ人たちを制すことなく寧ろ、ゴムの棒でデモの参加者たちをたたいて応戦したのであった。
その夜、皇帝夫妻、大統領、市長が訪れると知った皇帝の抗議者や野次馬たちはシャルロッテンブルクのオペラの前に集結した。そして彼らに対し石や卵、カラーボールが投げたのである
ベンノ・オーネゾルグというローマ学、ドイツ学を専攻していた学生にとっては、その日初めて政治的デモに参加だった。しかしその学生は不幸にもデモの抑圧の名の下にのカール・ハインツ・クラス警部補(当時39)は彼を意識がなくなるまで殴られ続けた。そして、詳しい状況はわかっていないが、ベンノは、この警部補によって、撃たれた。
誰も銃声を聞いていなかった。彼は、病院に運ばれ、間もなくなくなった。しかし、警部補が、有罪判決を受けることはなかった。
今日のAlex Spriger AG http://www.axelspringer.de/en/index.html のオーナーであるアレックスシュプリンガーは、当時新聞記者だった。学生運動の流れの中で、アレックスは
とりわけビルト紙に彼の保守的思想を書いていたのだが、彼は、ベンノの死去以降、左翼学生たちを否定的にとらえた記事を書いた。
このシュプリンガーの記事は、50年代と60年代の高度経済成長社会を通じて形成された社会に疑念を抱いている人を論破した。それを持って、学生運動にするどいメスを入れることで、学生運動を罪ある行為とした。1968年のルーディデゥチュケの暗殺についても、アクセルによって、ネガティブなものとして、そのビルド紙に載せられた。
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