日常
DDRでは、1958年まで配給制が続いていた。そのため、買い物の為の「生活必需品券」(国から発行される文書で、その所有者は定められた配給品を定められた量受け取ることが出来る)が必要で、スーパーの前には長蛇の列がずっと並んでいた。
いくつかの消費財は常に不足していた。価格と給料は国家によってだいたい決められていた。国は特に日常生活に欠かせない商品の売価の統一に関して補助金をだした。この国のモットーに反して、輸入することのできた電気機器や製品はたいていとても高かった。
高価、高級な商品は、いくつかのチェーン店で買うことができた。高級食材店での食材や、高級な洋服屋における最新の洋服などがこれに当たる。
DDRの人々はどこに住んでいたのだろうか。うわゆるパネル建築(Plattenbauten)という建築物がDDRのあちこちに建てられていった。
この建築物は概ねできあがりのコンクリートで出来た建て物であり、天井や壁も工場でつくられた出来上がりのものでつくられていた。この組み立ては比較的早く行うことができ、工場での生産も早く行うことができた。しかし、これにはデメリットもあった。たとえば壁が薄すぎるために、となりの人が何をしているのか、何を話しているのか筒抜けだったのだ。
一台の車を買うために、申し込みをしてから最長で15年間またなけれ場ならなかた。やみ市では一部でその長い待ち時間を回避することもできあ。トラバントのような典型的な車は新車で、待てば10000東ドイツマルク、待たずに闇市で買おうとすると、その三倍の値段がした。
車の生産のはじめに、トラバントは国民車として受け入れられ、中級階層の人々が自動車を手に入れた。
車を持っている人は、トラバントを持っている。この国民同水準化はDDRが、西側のシステムと差別化を測る時に用いた基本方針であった。
監視(シュタージ)
国家保安局はシュタージと呼ばれ、DDRの秘密組織であった。1950年に設立された。この組織の重要人物としては、長い期間国家保安相を努めたエアリッヒミールケがあげられる。彼は1957年から、壁の崩壊まで勤め上げた。シュタージの各県の管理はDDRの一般地方自地と似たような手法で行われた。彼には、国、軍、工場、官庁に指示系統が存在していた(?)監視網は、無数の秘密の同業者で構成されていた。とりわけ手紙の検閲や、電話の監視を通して行われていた。
1989年には85000人のシュタージ職員と、174200人の秘密の同業者が働いていた。官庁の活動は、主にこの国にふさわしくない思想を持つ人や、反社会勢力、そして政治に対して反対する人にもむけられた。職務の範囲は、特に公民権運動のシンパ、宗教や自然保護団体、批判的な芸術家だけでなく、国家保安局の圧力と尾行の中心的役割を持つ組織に入りたいという意志を示した人にも行われた。
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