Sonntag, 5. Juni 2011

DDR史②

イデオロギーとプロパガンダ

他の共産主義国と同様に、DDRの政策の中で、プロパガンダは大変重要な意味を持っていた。その目的は、西側諸国の資本主義を批判することだった。すべてのメディアがSEDによる検閲を受けていたために、プロパガンダは常に日常にあふれていた。その好例としては、ニュース番組の「Aktuelle Kamera(時事カメラ)」や「Schwarze Kanal(黒い運河)」等があげられる。

「Aktuelle Kamera」はDDRのテレビ番組の中で、代表的な番組であった。内容としては、その多くが中央委員会の活動や、SEDの党大会、公的な理由での外国訪問などが主であり、そのほかに工業や農家における製品や作物の誤った改善(?)が報じられた。「schwarze Kanal」は政治扇動的な放送だった。西側のテレビの一こまだけを切りぬいて放映そ、そのあとに東側の観点からそれについてコメントしていった。この放送は、東側でも放送が見れ、人気のあった西側のテレビ放送への、西側の応答だった。”テレビ放送を介した共和国逃走”と呼ばれている(?現実逃避していたということか?)

真偽は置いておいて、並々ならない偉業を達成した個人は、ジグムントヤーン(ドイツ初の宇宙飛行士)やアドルフヘネッケ(ドイツの炭鉱夫・SEDのリーダーによって、ロシアの炭鉱夫アレクシライシュタッハノウの模範に引きづ付いてDDRの中でも代表的な炭鉱夫を、ということで選ばれた)のように、国家の英雄とされた。

文化

スポーツもDDRの形成において重要な観点である。DDRの憲法には世界で初めて、学校や国民スポーツといった身体的健康形成を推進が明記された。その中でもとりわけ重要だったのが、子どもと若者の健康であった。しかし人々はそう簡単に古来の理想「健康な肉体に健康な精神が宿る」へ戻っていくことは出来なかった。豊かなBDRでは、この東側のスポーツは復讐を象徴し,プロパガンダがそのあかしだった(?)
1972年のミュンヒェンオリンピックはとりわけ重要だった。初めてオリンピックで「DDR」選手団が、DDRの旗の下で行進することが許された。このオリンピックではDDRは合計で20の金メダルをとり、世界で三番目のメダルの数を記録した。
しかし、選手の準備に関しては、「許されざる手法(ドーピング)」が行われた。国歌は年間100万人もの研究者を、ドーピング研究に従事させるために投じた。

スポーツと並んで、芸術や文化は東側における重要な部分である。DDRの文化はドイツの労働運動の伝統と、ソビエトかを混同させ、とりわけ最終的には個人崇拝へと導くものだった(?)
BDRがデカダンのモダン主義を達成したのに対し、DDRは社会主義的現実であった。この動きの三つの原則とは①労働者の側に立っていること(芸術家は自由と社会主義の理想を渇望する活発な同志でなかればならない)②民俗の統一(芸術は国民をまとめ、自意識のレベルと求められるところまで導かなければならない)③社会主義的理想を持っていること であった。 文化はベルトルドブレヒトのようにマルクス的な思想に寄り添うというところに根ざしていた。ベルトルドブレヒトはSEDによって持ち上げられ、多くの賞を受賞した(たとえば国民栄誉賞一級, 1951年)

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